東急リバブルの三浦さん。
2012-07-20



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二〇〇七年八月に母が認知症を発症した後、もう独り住まいには戻れないと医者に宣告され、僕はこの人に母のマンション売却をお願いした。

さかのぼること三年前、当時母が独り住まいしていた横濱の実家売却を老朽化で決断した折り、最寄り駅だった京浜急行金沢文庫駅前の東急リバブルに飛び込んだのがこの人との縁の始まりだった。

母を小樽に呼び寄せる最後の機会と思い奨めたが、母は頑として受け入れず、それどころか、この人に頼んで実家が売れる前の皮算用で横須賀にマンションを購入してしまった。

実家の売却額よりも、母の借金返済&マンション購入額が上回るという悲惨な結果を背負うのは一人っ子の僕しかいなかった。のみならず、仕方なく母のマンションへの引越を北海道小樽から手伝いに帰省した際、引越決行二日前というのに、母は茶碗ひとつ荷造りしていなかった。

今思えば、それは認知症の兆候だったのだろう。引越代の持ち合わせすらなく転居を決めた母の、恐るべき料のゴミの廃棄だけでも引越代とは別に五十万円以上かかった。すべての尻拭いをした僕には悪夢の日々だった。

実家の売却と横須賀のマンション購入の双方を担ったこの人は、引越当日、いきなりブルーに赤いラインの入ったジャージ姿で星野家に現れた。
「何を着ていいか分からなくて押し入れをひっくり返したら、高校時代のジャージが見つかったんで」

不動産仲介屋のこの人が、もくもくと母の荷造りを手伝ってくれたのは二〇〇四年十一月のことだ。

二〇〇七年秋にその横須賀のマンションの売却をお願いした時、この人は金沢文庫から偶然にも横須賀の営業所に移っていた。

母があれよの間に入院してしまった病院のある、京浜急行横須賀中央の駅前にその営業所はあった。

認知症患者の介在する不動産取引には様々な困難がつきまとい、司法書士による書類作成等、さまざまな局面でまたしてもこの人の世話になった。

二〇〇七年の盆に発症した母は九月に入院したのだけれど、間もなく病院からはこれ以上の治療は出来ないからと退去を命ぜられた。小樽では母を入所させられる施設を探し、そのための小樽・横須賀双方の役所の気の遠くなるような手続きに追われ、最終的に母を小樽へ搬送したその年の十一月末までに、僕は小樽〓横須賀を十往復した。

小樽と横須賀の往復、入院や入所や引越(マンションの処分/またしても膨大な荷物とゴミ!)に想像を遥かに超える費用がかかるので、マンション売却は至上の命題だった。

この人やこの人の部下たちに一円でも高くマンションを売ってもらうために、病院の近くで朝九時から営業している三冷ホッピーの殿堂で、彼らを接待したこともある。

病院帰りのあらゆる時間帯に立ち寄ったその大衆酒場の店主ともやるせない交流があったのだけれど、昨秋両親の墓参りに立ちよった際、「大衆酒場もーり」はまさかの廃業をしていた。


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